旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

夜行列車の考察 ~商品価値を重視した対北海道列車~ その2

北斗星」よりさらに充実した商品価値を求めた「トワイライトエクスプレス

 その「北斗星」の成功からおよそ1年後。JR西日本は大阪-札幌間に新たな夜行列車の運行を始めた。「トワイライトエクスプレス」がそれである。いわゆる日本海縦貫線を走破し、青函トンネルを抜けて札幌へと向かう列車であるが、こちらもまた内装にかなりの力を入れている。

 「トワイライトエクスプレス」は「北斗星」同様に個室中心の客室設備としたが、こちらもまたヨーロッパの豪華列車を意識した内装になっていた。特に、下り列車の大阪方に連結される最後尾(1号車)のスロネフ25形は大きな話題を呼んだ。
 従来の客車列車は、最後尾には必ず緩急車と呼ばれる車掌室を備えた車両が連結される。そして、その車掌室は車掌による後方監視を目的に、列車の最後尾に位置するようになっていた。前述の「北斗星」でも、その慣例は守られていたが、この「トワイライトエクスプレス」はその慣例を破り、客室と一体化して後方展望そのものを商品化したのである。
 この「スイート」と呼ばれた個室A寝台は、リビングとツインベッドをそれぞれ別室にした仕様で、いわばホテルのスイートルームのような構成であった。その「スイート」は1両にたった2室しかない。言い換えれば、1両の乗車定員はたったの4名という、前代未聞の車両になったといえる。もちろん、料金もそれなりの設定になり、値段は1室50,000円であった。
 しかし、客車の半分をホテルのスイートルームのようにした設備、特に最後尾からの展望は好評だったようで、この寝台券はまず入手が不可能な超プラチナチケットとまでいわれた。他に、B寝台も個室は入手困難であった。実際、私も何度か乗車を試みようとしたものの、やっと取れたチケットは開放式のB寝台だった。*1

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函館運輸所で「昼寝」をする「トワイライトエクスプレス」用のオハネフ25 502。2006年7月に発生した奥羽本線上の土砂崩れにより運休となって、函館に留め置かれた状態になっていた。本当なら、この列車に乗るはずだったのが悔やまれる。©Norichika Watanabe

 食堂車もまた、「北斗星」同様に豪華な内装と、列車のイメージに合わせたメニューで好評であったようだ。食堂車にも名称をつけ、「ダイナープレヤデス」と名付けられ、ヨーロッパを走る列車のような雰囲気であった。そして、この食堂車の営業時間は、「北斗星」とは異なり「ランチタイム」という時間帯が設けられていたという。提供されるのはカレーライスなどの軽食ではあったが、それでも昼間の時間帯に食堂車で食事が楽しめる列車は、この「トワイライトエクスプレス」だけであった。その理由は、「トワイライトエクスプレス」の所要時間が大きく関係していたといえる。大阪を12時に発車し、札幌到着は翌日9時3分であり、21時間3分と最も長い所要時間であった。そして、12時に発車するという時間帯もあって、「ランチタイム」が設定されていた。
 もう一つ、「トワイライトエクスプレス」がそれまでの夜行列車と一線を画するものがあった。それは外観だ。夜行列車といえば青色の塗装を身に纏った列車、というのがそれまでのイメージであり常識であった。「トワイライトエクスプレス」はその常識を打ち破り、深緑色に金色の帯を一本巻いたデザインとした。これもまた、ヨーロッパのオリエント急行を意識したものであった。
 ただし、「トワイライトエクスプレス」は完全な定期列車ではなく、あくまで臨時列車として運転されていた。繁忙期は毎日運転されるが、それ以外はほぼ隔日の運転とされていたことが、さらにチケットを入手困難にさせていたといえる。もっとも、その困難さが話題を呼び、その豪華な内装とともに人気の列車であり続けたといえる。
 無論、こうしたJR西日本の「トワイライトエクスプレス」のサービス水準もまた、「北斗星」と同様に夜行列車への「商品としての価値」を重視したものであるといえる。21時間以上も車内で過ごすことになる利用者にとって、無機質で実用本位の車内設備では、利用者もすぐに離れていってしまう。そうなれば、他の夜行列車と同様に、利用者離れが始まり凋落を加速させるだけであったと考えられる。同じ轍を踏まないために、「北斗星」の成功と利用者のニーズをしっかり把握した結果、このような車両を登場させるに至ったと考えられる。もっとも、ベースとなったのは国鉄から引き継いだ24系25形客車ではあるが、思い切った付加価値をつけることで他との差別化を図ることで、最後まで人気の絶えない列車にまで成長していったといえる。

対北海道夜行客車列車の決定版「カシオペア」の登場

  対北海道夜行客車列車を語る上で、もう一つ避けては通れない列車がある。それが「カシオペア」だ。「カシオペア」は上野発の第三の夜行列車として、1999年から運転が開始された。
 ところが、この「カシオペア」はすべて新製された車両で運転された。21世紀も目前に迫り、夜行列車の衰退が進行し列車そのものの統廃合が進む中、客車を新しく製造すること自体が衝撃的であったといえる。

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1999年から運転が開始された「カシオペア」。JR移行後、初めて新製されたE26系客車は軽量ステンレス構造の車体にボルスタレス台車を装備するなど、当時の新技術を取り入れた。同時に「北斗星」「トワイライトエクスプレス」の経験を生かし、車内設備はさらに充実したものとなり、最後尾に連結されるスロネフE26形には、展望室の「カシオペアスイート」が設置され話題を呼んだ。©Norichika Watanabe

  「北斗星」「トワイライトエクスプレス」に続く「カシオペア」は、車体も時代に軽量ステンレス構造で、台車もボルスタレス式のものを採用するなど、当時に最新技術を取り入れたE26系客車であった。
 このE26系客車はなんと言っても、一部を除いてすべて二階建構造、それも個室A寝台のみで構成された車内設備が大きな特徴であった。個室B寝台との差別化をするために、すべての部屋に洗面台とトイレを備えていたことは大きい。また、食堂車も二階建構造とし、1階部分を業務用室と通路、2階部分を食堂、車端部を厨房にした構造で、食堂車を通過する人を気にせず、しかも2階からの眺めのよさもありゆったりと車窓を眺めながら食事を楽しめた。

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【上段】「カシオペア」のダイニングカー(食堂車)の朝食。写真は洋食であるが、他に和食御膳も選択できた。【中段】電源車となる札幌方のカハフE26形を除いてすべて二階建構造としたので、ダイニングカーであるマシE26形の食堂は眺めのよい2階に設置され、明るい雰囲気で車窓を楽しみながら食事ができた。【下段】「カシオペア」はすべて個室A寝台の設定になったため、最も設定の多い「カシオペアツイン」はメソッドタイプであるにもかかわらず、すべての部屋にオーディオセットと化粧室が設置されている。

  この他にも、下り列車最後尾に連結されるスロネフE26形は、前述の「トワイライトエクスプレス」同様、展望室タイプ1室とメソッドタイプの「カシオペアスイート」と呼ばれる個室を3室備え、乗車定員は8名という「トワイライトエクスプレス」に匹敵する設備をもつもので、登場当時は大きな話題を呼んだ。寝台料金は1室52,440円であったが、こちらも人気となりチケットの入手が困難であった。
 もちろん、他の対北海道夜行客車列車と同様に最も多い「カシオペアツイン」と呼ばれるメソッドタイプの二人用個室も、寝台料金が27,460円と二人用個室B寝台である「デュエット」が12,960円に対して割高であったにもかかわらず、こちらも入手困難であった。それだけ、日常では味わえない、ゆったりとして夜行列車での旅を楽しむ、というコンセプトが観光を目的とした利用者のニーズに当たったのは間違いないといえる。
 これらの列車は、北海道新幹線建設工事の進捗に伴う工事時間帯の確保から、列車の運転本数を減らし、さらに青函トンネルの電化方式が従来の交流50Hz20kVから新幹線用の交流50Hz25kVへ変換されるのを機に、絶大な人気を保ちながらも「北斗星」が2015年3月13日発車分をもって定期列車としての運行を終え、臨時列車扱いとして運行されてきた「トワイライトエクスプレス」も2015年3月12日発車分をもって運行を終えている。さらに残った「カシオペア」が単独で対北海道夜行客車列車として運行されていたが、それも上野発が2016年3月19日に、札幌発が翌3月20日をもって運行を終了した。

 これら対北海道夜行客車列車に共通していえるのは、時代の変化による利用者のニーズをしっかりと取り入れ、対抗する航空機などの他の交通機関にはない鉄道のよさを前面に押し出した商品作りをしたことであろう。
 確かに目的地までの所要時間は、航空機や新幹線の前には敵うはずもない。17時間~22時間近くも列車に揺られ、悪くいえば閉じ込められるのである。その長い乗車時間を逆手に取り、日常では味わえない時間を提供するというコンセプトは、観光を目的とした利用者にとっては魅力をもたせなければならない。
 そのために、個室寝台を中心とした構成にし、高級ホテルを思い起こさせるような内装とメニューの食堂車、さらにラウンジを思わせるロビーカーなど、よい意味で贅をこらした車両とサービスは、まさに夜行列車の「商品としての価値」を高めたといってよいだろう。そうしたJRの商品づくりは的中し、運転を終了する直前まで利用者が絶えることがなかったのはその証左でもある。
 このように、利用者のニーズをしっかりと捉え、そのニーズに応える商品としての価値を夜行列車に盛り込んだことは、連綿と続いてきた国鉄の伝統から脱却した証でもあり、民間企業ならば当たり前のことを成し遂げた意味は大きいといえる。

*1:B寝台券の入手には成功したものの、2006年7月に発生した大雨の影響で、羽越本線小岩川駅 - あつみ温泉駅間で土砂崩れによる不通となり、トワイライトエクスプレスも運休となって「幻のチケット」となってしまった。

シリーズ「駅弁」の旅 浜松駅「浜名湖三ヶ日牛&遠州しらす弁当」

 遠州浜名湖の名産といえば、まず思い浮かべるのは「うなぎ」ではないでしょうか。
 遠州灘に隣接する浜名湖は、よくある湖とは違い海水と淡水が交わる汽水湖なので、栄養も豊富でたくさんの魚や甲殻類といった魚介類が集まっています。スズキやカレイといった天然の魚や、アサリも豊富に獲れるところでシーズンになると潮干狩りもできるようです。
 この汽水湖である浜名湖の特長を生かして、明治時代からウナギの養殖が盛んに行われました。これが、浜名湖の代表的な特産物として世間に知られるようになりました。
 浜名湖の周辺にはウナギ料理を専門に振る舞うお店が数多くあり、脂ののった美味しいウナギ料理を食べることができます。が、最近は輸入品におされて生産量が減っているようです。
 ところで、浜松駅の駅弁といえばやはり鰻弁当が有名です。いまでも浜松駅に行くと買うことができますが、そのお値段はなんと2,000円以上。いまでは鰻は高級な食べ物になってしまいました。
 鰻はさすがにお値段が...という方も多いでしょう。まあ、私も駅の売り場で躊躇したくらいですから(笑)
 そこで、今回は「浜名湖三ヶ日牛&遠州しらす弁当」を紹介します。
 この駅弁。自笑亭という浜松の駅弁を専門にする会社が販売しています。この自笑亭は歴史が古く、創業は1845(安政元)年と江戸時代後期まで遡ることができるようです。
 その後、東海道本線が浜松まで延伸した明治21年には、さっそく鉄道省から駅構内での営業許可を下ろしていることから、既にこの頃には駅弁も販売していたのではないでしょうか。
 これだけ歴史のある駅弁製造を営む自笑亭は、地元浜松の名産をふんだんに使った駅弁を数多く販売しています。もちろん、先ほどもお話しした鰻を使った「濱松うなぎ飯」もこの自笑亭の商品でです。他にも、浜松ゆかりの食材と浜松のゆるキャラをコラボした「出世大名家康くん弁当」や三ヶ日牛を使った「浜松三ヶ日牛弁当」と浜名湖で獲れるしらすをふんだんに使った「遠州しらす弁当」など種類が豊富です。
 今回の「浜松三ヶ日牛&遠州しらす弁当」は、自笑亭の代表的な二つの駅弁を一つに併せた、「一つで二つ分美味しい」というちょっと欲張りな駅弁です。

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 パッケージは駅弁ではあまり見かけない透明プラスチックの容器に入っているので、中身がよく見えます。帯は黒地に黄色い文字で「浜松三ヶ日牛&遠州しらす弁当」と大きく書かれているのでわかりやすいです。

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 二つの駅弁を一つにまとめた欲張りなものだけあって、それぞれがお互いに自己主張(?)するように入っています。斜めに切れ込むような仕切を入れてあるので、両方の味がまざることがないようになっていました。その分、それぞれの味をしっかりと楽しめます。

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醤油ベースのタレで煮込んだ三ヶ日牛は、柔らかく歯ごたえもあります。三ヶ日牛は浜松のブランド牛で、肉質は甘みがありきめが細かいそうです。その肉質を損なうことなく辛くならない程度の味付けがされています。写真では僅かしか見えませんが、ご飯は同じく浜松の名産である三ヶ日みかんの果汁を混ぜ込んだもの。甘酸っぱさが肉の甘みを引き立たせてくれます。

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 しらすは遠州灘で獲れたものを使っています。しらすを釜揚げしたものを、ご飯の上にびっしりとのせてあり、一緒に食べると素朴な味わいが。浜名湖は水産物が豊富で、アサリもたくさん獲れるようです。そのアサリもしらすと一緒に食べることができるのは、ある意味贅沢かも知れません。

 浜松の名産を一度に味わえる「浜松三ヶ日牛&遠州しらす弁当」。お値段も1,030円とお手頃です。浜松で駅弁を買うときに、肉にするか魚にするかで迷ったときは、この駅弁ならどちらも楽しむことができます。それだけに、実は浜松駅の人気商品だというのも頷ける話です。
 「浜松三ヶ日牛&遠州しらす弁当」は、調製している自笑亭の直営売店で買うことができます。直営売店は浜松駅か掛川駅のどちらかで、私は浜松駅のコンコースにある売店で購入しましたが、売店は改札内にもあります。

シリーズ「駅弁」の旅 横浜駅「シウマイ弁当」

♪おいしいシウマイ~♪
というテレビコマーシャルで知っている人も多いと思う、このシウマイ弁当
 実は、「駅弁」だということを知っている人は、意外に少ないのかも知れません。私も仕事の関係で、年に1回以上はこのシウマイ弁当を食べる機会がありますが、その度にこの話題になると多くの同僚がビックリしています。まあ、それだけテレビコマーシャルの印象が大きいという大きいということなのかもしれません。

 このシウマイ弁当。やはり横浜の代表的な駅弁であることは確かです。
 横浜といえば何を思い浮かべるでしょうか。やはり、横浜港をはじめとした文明開化の港町という印象をもつ方も多いのではないでしょうか。きらびやかで超高層が建ち並ぶなみなとみらい地区や、異国情緒たっぷりの横浜港周辺はまさに横浜の観光スポットです。その中に、やはり外せないのが横浜中華街。華僑の人たちが店を構え、腕を振るう本格中華は格別です。
 その中華街がある横浜だからこそ、中華料理でもあるシウマイがお弁当の中に入るのも頷けます。

 シウマイ弁当を販売するのは皆さんもご存知の崎陽軒。この崎陽軒は、1908(明治41)年に当時の横浜駅(現在の桜木町駅)の駅構内の売店として営業を始めたのが始まりです。ところが、この当時はお弁当を販売していなかったようです。
 シウマイ弁当の誕生は意外にも新しく、第二次世界大戦が終わった直後の1954(昭和29)年とのこと。当時の社長が、横浜駅の名物を作ろうと中華街で販売していたシウマイに目をつけたことから始まったそうです。そして、駅などで販売するために「冷めても美味しいシウマイ」をつくろうと、点心の専門家である華僑の料理人を招聘して試行錯誤の末に完成したのが、現在の崎陽軒のシウマイのルーツだとか。確かに、冷めいても美味しいです。

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 さて、このシウマイ弁当。駅などで購入するとご覧のパッケージ。手に取って食された方も多いでしょう。目立つ黄色い包み紙に、中華街を連想させる龍の絵が特徴的です。

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 中身は幕の内弁当の折り詰め。おかずに主役のシウマイが入っています。

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 ご飯は俵形のご飯にごま塩がかけてあり、梅干しものせてあります。駅弁という形態で販売されるため、基本的には「冷めている」状態で食べるので、少し硬くなるのは避けられません。そこで、食べやすいようにと俵形にしてあるようです。
 ごま塩はご飯の味を邪魔しない程度の量で、塩気は控えめです。ご飯はもちもち感たっぷりで、腹持ちがいいようになっています。

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 やはりメインのおかずは「シウマイ」ですね。シウマイは5個入っています。シウマイにつける醤油と練り辛子も入っています。さすがに冷めても美味しく食べられるように改良されているので、シウマイの味がしっかりと出ています。
 そして、シウマイだけではなく、筍の煮付け、唐揚げ、鯖の照り焼きなども。特に鯖の照り焼きは甘さを抑えていて、醤油の味が前面に出てきています。少し塩辛いと感じたときには、筍の煮物に箸を伸ばすとちょうどよく感じるかもしれません。この豊富なおかずは、お弁当を飽きることなく食べられます。
 漬物はありませんが、昆布の佃煮と紅生姜が添え物としてついています。このお弁当の箸休めとしてはピッタリです。

 駅弁としてはかなりメジャーな「シウマイ弁当」。冷めていても美味しく食べられるというコンセプトで開発しただけあって、温めなくても美味しく食べることができます。そして、なにより腹持ちもいいのが有り難いです。

 シウマイ弁当横浜駅の駅弁ですが、横浜駅以外でも神奈川県下の主要駅はもちろん、神奈川県や東京都、千葉県、埼玉県、静岡県のデパートや駅ビルなどに崎陽軒の売り場があるので比較的手軽に購入できます。変わったところでは、東名高速道路足柄サービスエリア(上下線ともに)でも買うことができます。

横浜名物 シウマイの崎陽軒

夜行列車の考察 ~商品価値を重視した対北海道列車~ その1

青函トンネル開通が夜行列車の大きな転機に

 「商品としての価値」を失った対九州方面の夜行列車。
 1970年代に設計・製造された老朽化が進行し、サービス水準も陳腐化していく車両で、高い運賃とあまりにも長い所要時間で、他の交通機関から利用者を奪われつづけた結果、その終焉を迎えていくことになった。

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上野駅で発車を待つ特急「北斗星」。1970年代に製造された24系25形客車を、時代と利用者のニーズに合わせた内装と設備、サービスにし、対北海道夜行客車列車の人気を集めることに成功した。©Norichika Watanabe

  夜間に長距離を移動する旅行客がいるという需要があるにもかかわらず、それを取り戻そうとするどころか、これといった有効策を打つことはかった。分割民営化の時に、九州方面の夜行列車を受け持つことになった、JR西日本JR九州にその余力がなかったことも、その要因の一つだと考えられる。
 ところが、行き先を変えてみると、夜行列車はまだまだ活躍の場があった。
 それが、対北海道・東北方面の夜行列車であった。
 北へ向かう夜行列車は、衰退するどころか逆に「商品としての価値」を創造していき、車両の老朽化と北海道新幹線の開業によって終止符を打たされてしまったが、廃止の間際まで一際高い人気を保っていた。
 もともと東北方面への夜行列車は多数運転されていた。
 上野から青森へ向かう夜行列車は、東北本線だけではなく、常磐線経由、奥羽本線経由など、同じ行き先でも多種多様であった。加えて、多くの座席急行列車も運転されていたことを見ると、かなりの需要があったといえる。
 京阪神からも同様で、いわゆる日本海縦貫線をそうはして青森に向かう特急「日本海」や新潟行きの特急「つるぎ」、急行「きたぐに」などは、一時は盛況を呈していたという。
 もっとも、対九州の夜行列車と違って、東北方面は新幹線の延伸が遅れていたことも、夜行列車の需要が極端に落ち込まなかった理由の一つといえる。1982年に開通した東北新幹線は、大宮-盛岡間の暫定開業を経て、1985年に上野まで乗り入れることになる。東京への乗り入れは民営化後まで待たねばならず、また、盛岡以北の延伸も2002年まで待たねばならなかった。新青森への延伸開業は2010年となり、暫定開業から28年の歳月を要してしまった。
 この全線開業までかなりの時間を要した原因については諸説あるものの、政治的な思惑や建設費用の財源問題、さらに新幹線の整備に伴い並行在来線の運営を、JRから切り離すことに対して沿線自治体が反対するなど、多くの課題が山積していたようだ。
 とはいえ、この28年の年月が経つ間に、対東北夜行列車は走り続けていた。
 そんな北へ向かう夜行列車に大きな転機が訪れたのは、1988年の青函トンネルの開通であろう。青函トンネルの構想そのものは戦前から出ていたものの、第二次世界大戦の勃発によって具体化することはなかった。
 しかし、1954年に起きた青函連絡船洞爺丸事故*1により、計画は具体化していくことになる。そして、着工から27年の歳月と総工費約9000億円をかけ、難工事の末に開通した。

利用者のニーズを絞り込んで商品としての価値付に成功した「北斗星

 この青函トンネルの開通で、北海道から九州まで鉄道がつながったことになった。
 JR東日本JR北海道は、上野から札幌まで直通する特急「北斗星」の運転を開始する。この「北斗星」は車両こそ国鉄から引き継いだ24系25形客車を宛てたが、その車内はそれまでの列車と一線を画するものであった。A寝台はともかくとして、B寝台も個室中心の設備へ改めている。そして対九州の夜行列車では連結こそしているものの、営業休止となってしまっていた食堂車の営業をさせている。
 この「北斗星」は、豪華な車内と食堂車のメニューなどサービス面を大きく変えたことで、夜行列車の「商品としての価値」を大きく向上させることに成功し、寝台券がなかなかとれないという現象を起こし、「プラチナチケット」とまで呼ばれるほどの人気を博した。

 私自身も、何度か北海道を訪れる時に、この「北斗星」を利用したことがある。
 対九州の夜行列車も利用したことがあるが、とにかく同じ車両を使用しているとは思えないほど、車内は豪華につくられていた。従来からある開放式B寝台は少なく、反対にB寝台でありながら、一人用個室や二人用個室が中心であった。もちろん、A寝台も個室だが、従来の細長く狭い区画の個室ではなく、できるだけ広い空間を確保した部屋になっていた。

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特急「北斗星」の食堂車「グランシャリオ」の車内。従来の食堂車の常識を覆す内装と調度品に、落ち着いた雰囲気を作り出して夜行列車の旅の楽しさに華を添える存在だった。©Norichika Watanabe

 そして、何よりも食堂車であるが、乗客が食事をする区画は絨毯敷きとなり、ワンクラス上の旅を楽しめる雰囲気をつくるため、調度品も従来の食堂車にはない豪華なつくりのものを採用。さらにテーブルにはシャンデリアが備えらるなど、それまでの列車食堂の「とにかく食べられればよい」という概念を覆すものだった。
 食堂車のメニューもまた、大きく改善されていた。ディナータイムはフランス料理か懐石料理から選べるが、事前に予約をしなければならない。もちろん、値段もそれなりに高くはつくが、その値段にふさわしい内容であった。ディナータイム終了後は、予約なしでも利用できるパブタイムとなり、アラカルトやアルコール飲料などを提供してくれるので、日常とかけ離れた「優雅な時間」を楽しめた。
 もう一つ、それまでの夜行列車にないものといえば、シャワー設備が備えられたことだろう。実際、私も一度だけ利用したことがあるが、揺れる列車の中で熱いシャワーを浴びてさっぱりとできるとは思いもよらなかった。かつて「走るホテル」と呼ばれた20系客車にもなかったもので、これこそまさしく「走るホテル」の名にふさわしい充実した設備であったといえる。

 このように、思い切った改善が功を奏し、人気のが途絶えることのない列車であったといえよう。
 では、なぜここまで夜行列車のサービスを大きく変えたのか。
 まず、時代のニーズに合わせたサービスを提供しなければ、走らせたところで利用者が離れていき、最後は採算もとれないお荷物になる危険があったからだ。実際、東京発対九州の夜行列車は利用者離れが著しく、採算がとれない状態に陥っていた。そうなると、同じ轍を踏むわけにもいかない。それ故、できるだけ多くの利用者を獲得するためには、利用者のニーズに合わせた設備でなければならない。即ち、「北斗星」は夜行列車の「商品としての価値」を重視した列車であったといえよう。
 もう一つは、JR東日本がかかわっていたということだろう。JR東日本は首都圏というドル箱を抱えており、資金も他の旅客会社に比べて資金も潤沢である。その潤沢な資金を使って、客車の大改造を実現できたといえる。
 一方、共同運行するJR北海道はそこまでの資金力はないが、列車を受け持つからには同じサービスレベルに揃えなければならないと、かなりの無理をしたのではないかと想像できる。とはいえ、東京から自社へ直通する列車の運行は悲願であったし、列車を利用して北海道を訪れてきた利用者は、潜在的に自社の運賃収入にもつながると読み、大規模な設備投資を実現させたといえる。
 さらに付け加えれば、JRにとって航空機の存在が脅威であったと推察できる。従来は東京から札幌まで移動する場合、上野から列車を乗り継ぎ、青森駅青函連絡船に乗船。函館駅で再び列車に乗り継がなければならなかった。ほぼ1日がかりでの移動である。対して航空機は羽田空港から新千歳空港まで約1時間強で移動が可能で、運賃面においても大差はなかった。
 つまり、札幌へ行くとなれば、第一選択として航空機を利用することが一般的だった。そんな「劣勢」な市場へ新たな夜行列車を走らせるとなれば、国鉄以来綿々と受け継がれてきた伝統に則った列車では、到底対抗できるものではない。それ故に、新たに運行する夜行列車には、ただ単に移動するだけの手段ではなく、「列車の旅そのものを楽める商品」にする必要性があったといえる。実際、「北斗星」の運転開始時には、上野から札幌まで所要時間16時間3分もかかるが、航空機にはない優位性を保つために、列車内でゆったりとくつろげる空間作りは不可欠だったといえる。

*1:死者行方不明者合わせて1155人。本船の他にほぼ同時に遭難した船舶を含めると犠牲者は1430人にのぼる。これは、日本の海難事故史上最悪のものであったと同時に、1912年のタイタニック号、1815年のサルタナ号に次いで当時の世界海難史上3番目の海難事故であった

シリーズ「駅弁」の旅 信越本線横川駅「峠の釜めし」

「駅弁~駅弁、駅弁はいかがですかぁ~」
 と、駅のホームに立った売り子が、大きな盆を抱えて駅弁を売っていたのは、もうずいぶんと昔の話になってしまいました。最近では、車内販売ですら姿を消しつつあるので、列車で旅をしていても楽しみが減ってしまう今日この頃です。
 でも、列車で旅に出たなら、やっぱりお供に駅弁は欠かせないと思うのは私だけでしょうか。
 堅いお話ばかり続いていたので、ちょっと視点を変えて、旅の楽しみ「駅弁」を紹介するシリーズを始めることにしました。ちょっとした「うんちく」も交えて、紹介していきます。

 その「栄えある」1回目を飾るのは・・・やっぱり「峠の釜めし」です。
 群馬県にある信越本線横川(よこがわ)駅で売られていた、有名な駅弁の一つです。
 何が有名か?それは、「器」なんです。

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 ご覧の通り、益子焼の立派な「釜」に入っています。しかもこの器、お持ち帰りOK。家に持ち帰って、ご飯も炊ける本格的な「釜」なんです。もちろん、その分だけ重さもどっしりとしています。

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 中身は、鶏肉とウズラの卵、山の幸の椎茸や栗などがぎっしりと詰め込まれ、その下にご飯があります。このご飯、ちゃんと味付けがされている「炊き込みご飯」です。その味はというと、濃すぎず薄すぎずちょうどよい味付けです。

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 量も多すぎず、少なすぎずなので、男性はもちろんですが、女性も「食べ過ぎた」という感じはしないと思います。香の物もついていて、柴漬けやわさびの粕漬けなどもあります。
 そしてなにより、駅弁といえば「冷めている」というのがふつうですが、この「峠の釜めし」はほんのりと温かいのが特徴なんです。実は、この温かいというのが、「峠の釜めし」の大きなセールスポイントにもなっています。
 駅弁といえば折り詰めというのが一般的ですが、駅弁黎明期の頃、横川駅で駅弁の販売を始めた「おぎのや」は、思ったよりは売れないことに頭を抱えていたそうです。どうすれば売れる駅弁が作れるのかと、当時の社長が実際に列車に乗り込んで、乗客たちに「リサーチ」したところ、温かくて楽しいお弁当がほしいということでした。
 今でいうところの需要のリサーチですね。そして、後に副社長となる社員と一緒に考えて作り出されたのが、この「峠の釜めし」だったそうです。駅弁といえば「お茶」ですが、当時は陶器の入れ物で売られていたことも、大きなヒントになったとか。そのリサーチによる商品開発が功を奏して、一躍人気駅弁になったとか。
 こうして誕生した「峠の釜めし」。現在は残念なことに、横川駅のホームでは売られていません。駅の改札横にある売店か、駅前の国道を少し行ったところにある、おぎのやの本店で購入することができます。ちょっと変わったところでは、東京駅の駅ナカにある「駅弁屋 祭」でも入手可能です。

 ちなみに、名前の由来ですが、北陸新幹線が開業するまで、この横川駅ではすべての列車に補助機関車を連結していました。その機関車を連結して国鉄(⇒JR)でもっとも急勾配だった碓氷峠に由来しています。
 実際、この機関車の連結作業に10分弱程度の時間がかかるので、当時はこの「峠の釜めし」を求めて、停車中の列車から多くの乗客がホームに降りて買い求めたとか。それだけ人気もあり有名な駅弁だったそうです。
 販売形態も変わってしまいましたが、いまも健在の駅弁なので、一度食べてみるのもいいと思います。
峠の釜めし本舗おぎのや

夜行列車の考察 ~なぜ、JRは積極策に出なかったのか~

 一般に、利用者離れが始まると、利用者を取り戻そうと様々な「改善」を行うのがサービス業をだけではなく、鉄道会社などの運輸業でもすることだろう。会社は利潤を生み出すことで成り立っているから、収益が減ればそれに対して増収につながる方策をとるのが一般的だ。
 ところが、夜行列車はたの輸送機関に利用者を奪われ衰退をし続ける一方で、JRは車両や運転ダイヤなど、積極的な改善をするどころか、放置し続けることになった。その理由はなぜか。

 まず、「夜行列車を運転し続けたのがJRだから」だ、といっても過言ではないと思う。
 この文言に、「どういう意味だ?」と思われる方も多いだろう。「なにをいいたいのか」「JRじゃなければ誰が運転するんだ」などといわれるかも知れない。だが、私は、「JRだから」だと考えている。
 JRは1987年の国鉄分割民営化によって誕生した、6つの旅客鉄道会社と1つの貨物鉄道会社、そして鉄道通信会社とシステム会社、1つの財団法人だ。旅客鉄道会社と貨物鉄道会社は多くの方がご存知だと思う。
 鉄道通信会社は、全国津々浦々に張り巡らされた国鉄の鉄道網を網羅する基幹通信回線を管轄する会社で、設立当初は鉄道通信株式会社(略称:JR通信)であった。その後、日本テレコムと名を変え、イギリスのボーダフォンに買収された後に、ボーダフォン日本テレコムを売却する際にソフトバンクに買収されて、今日ではソフトバンクになっている。あのソフトバンクがJRの鉄道電話回線を運営しているとは、当時誰も予想しなかっただろう。かくいう元職員の私でも驚いたものだ。
 JRシステムは、駅にある「みどりの窓口」の端末及びそれをつなぐシステムを管轄する会社だ。JRの乗車券や特急券が、全国どこでも購入できるのは、東京の国立市にあるこの会社のおかげだ。他に見えないところでは、JR貨物のコンテナ輸送情報システムなど、見えないところでJRにかかわるコンピュータシステムの開発と運用・管理を行っている。
 まあ前置きは長くなってしまったが、こうした会社。一般には民営化されたことで、民間会社になったと思われるだろう。確かに、その通りであるが、正確ではない。というのも、今日完全民営化されたのは東日本、東海、西日本、九州の4旅客会社だけだ。あとは、国が株式を保有する特殊会社で、当然のように国の管理下に置かれている。その状況が、実は民営化当初どの会社にもあったのだった。
 つまり、看板はJRにかけ替えられ、対外的にも新しい会社となっていたが、その実中身といえば相も変わらず「国鉄」のままだったといえる。それは、国の管理下に置かれていたということのほかに、体質そのものが「国鉄」のままだったといえるだろう。その理由の一つに、発足当初からほとんどの経営陣は旧国鉄官僚や運輸官僚によって占められていた、という見方ができる。
 官僚出身者に民間企業の経営は、まったく畑違いの仕事といえる。役所は黙っていても納税という形で収入があるが、民間企業ではそうはいかない。営業施策如何によっては、増収にもなるし減収にもなってしまう。
 そしてその体質は、発足当初のJR各社の職員にも共通していたことだと考えられる。お役所的体質で商売をすれば、いわゆる「殿様商売」となってしまい、サービス面だけでなくハード面やソフト面でも弊害が生じてしまう。実際、看板が変わり、新しい車両の開発には力を入れるが、それを走らせるための線路設備に対しての投資は、どちらかといえば消極的な姿勢だった。
 もう一つの弊害は、旧国鉄から綿々と受け継がれてきた「伝統」だろう。良くも悪くも伝統というのは、その組織が培ってきた風土だ。伝統を受け継ぐことは悪いことではない。しっかりとした確かなものを創るためには必要なものだが、反面、新しいことへの挑戦を阻むことがしばしばある。

 こうした旧国鉄からJRへと移行し、看板も代わり国民からの受けもよくなった新会社。だが、そこで使われ続けている車両は、すべて国鉄から引き継いだものばかり。原設計が1960年代から1970年代のものがほとんどで、それらは長年の経験と技術に支えられた信頼性の大きい機器類を搭載したものだった。言い換えれば、信頼性はあるが経済性はないといっていい。私鉄が次々に新機軸を導入した車両を開発し、運行コストを下げて経済性を上げていくのを横目にに、それらの導入に保守的なまでに国鉄技術陣は消極的だった。
 夜行列車についても同じだったといえる。運賃面では高価で、所要時間の短縮も図らない。それどころか、年を追うごとにダイヤ編成上の厄介者として扱われ、所要時間は伸びていく一方だった。加えて、夜行列車として運用する車両は国鉄から引き継いだ20年以上使われ続けている古い車両ばかりでは、利用者も敬遠するであろう。
 そこへもってきて、悪くも国鉄から引き継いだ「伝統」が、それらの改善を阻害していったと私は見ている。

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1987年民営化直後の特急「あさかぜ」。先頭に立つEF66形電機機関車は1966年に高速貨物列車専用機として開発されたが、「はやぶさ」「富士」のロビーカー連結による牽引定数の増加に伴って、それまでのEF65形から運用に余裕のあった当機に代えられた。とはいえ、既に車齢は20年を超えている。客車は24系25形客車で1973年から製造されており、この時点ではまだ新しい方であった。とはいえ、国鉄から引き継いだ車両であることには変わりない。©Norichika Watanabe

 同じ方面へいくつもの列車を走らせるのは効率も悪く、経済性にも乏しいといえる。実際、東京発九州方面行きの夜行列車は「さくら」「富士」「はやぶさ」「あさかぜ」「みずほ」の5本を走らせている。このうち「富士」は小倉駅から日豊本線へ直通して、大分・宮崎方面へ向かうが、他の4本はすべて鹿児島本線へ入っていく列車だ。ただでさえ乗客離れが激しく、寝台は閑散とした状態の車両を15両近くも連結して走らせるのはいくら何でも採算性を度外視していると言わざるを得ない。後に編成の短縮や、列車の統廃合と併結を行っていくが、時既に遅しといった案配だった。このように、いくつもの重複する区間を走る列車を多数運転していたのは、やはり国鉄から引き継いだ伝統であると考えられる。もしも、このような重複状態を解消し、選択と集中を行い効率化を図っていれば、もしかすると挽回のチャンスはあったかも知れないだろう。
 次に、これらの列車の停車駅の多さも問題だったといえる。乗務員が交代するための運転停車は除くが、それでも停車駅が多すぎるが故に所要時間は長くなり、鉄道のメリットである速達性が生かされていなかったといえる。
 具体的な例を挙げれば、前に述べた特急「あさかぜ」の停車駅は、

東京駅 - 横浜駅 - 熱海駅 - 静岡駅 - (浜松駅) - (名古屋駅) - 〔大阪駅〕 - 〔姫路駅〕 - 岡山駅 - 〔倉敷駅〕 - 〔新倉敷駅〕 - 福山駅 - 尾道駅 - 三原駅 - 西条駅 - 広島駅 - 宮島口駅 - 岩国駅 - 柳井駅 - 光駅 - 徳山駅 - 防府駅 - 新山口駅 - 宇部駅 - 下関駅 - 門司駅 - 小倉駅 - 博多駅 ※このうち()は下り列車のみの停車、〔〕は上り列車のみの停車を表す

 と、実に多くの駅に停車している。これだけの駅に停車していては、所要時間は短くすることは難しいであろう。これもまた、伝統的に停車してきたがために、思い切って停車駅を減らすことが難しかったようである。もし、JRが思い切って停車駅を削減しようものなら、地元からの反発が起こる可能性はあったであろう。
 しかし、乗降客数をしっかりと把握し、利用実態をきちんと説明すればある程度の理解が得られた可能性もあるといえる。そうすれば、夜行列車は長距離都市間輸送に特化し、主要駅にのみ停車して、その他の駅には地域の都市間輸送を担う列車へ任せるという方策も考えられただろう。
 こうした考えは民間であれば当たり前の発想になったであろうが、残念ながらJRにはなかった。やはり、経営者が官僚出身者だったからだと考えられる。その論拠の一つとして、2015年にJR貨物の会長に就任した石田忠正氏が実行した経営改革である。

経営改善に向け、2013年に外部から招聘したのが、現会長の石田忠正氏。日本郵船の副社長や日本貨物航空の社長を歴任した海運・空運のプロだ。新たな視点によるJR貨物再建の担い手としてはベストの人材だった。

JR貨物に来て石田氏が驚いたのは旧国鉄時代の意識が抜けきっていないことだった。

たとえば、コンテナの調達コストは海運業界に比べ明らかに割高。資材調達部署に1円でも安く調達しようという発想がなかったのだ。営業面では、行きは荷物が満載でも、帰りは空(から)の列車が走るのは当たり前。少しでも空きを埋めようという意識が希薄だった。

「石田会長は数値に基づいて経営を見るという姿勢が徹底している。われわれはデータを持っていたが、使いこなしていなかった」と、JR貨物の田村修二社長は言う。(出典:東洋経済JR貨物、悲願の株式上場に立ちはだかる障壁」より)

 この記事からもわかるように、コスト意識やデータを活用しようという発想はJRにはなかったといえる。まして、分割民営化直後ならなおさらのことであろう。実際、JR貨物は2016年度に悲願の黒字化を達成している。

 話は少し逸れるが、私が電気区勤務の時代に、庁舎内の照明器具に使う安定器(小型の変圧器)を、すべてインバーターに置き換えようと模索したことがあった。その理由はランニングコストを抑えることができるからだ。ただでさえ、営業収支がよくない、保守に使える予算がないといわれ続け、入社直後に起きた台風による武蔵野線新小平駅水没の影響で営業収入が極端に落ち込んだために、初めて満額もらえるはずだったボーナスはカットされてしまった。
 それならば、24時間つきっぱなしの照明にかかる電気料金を削減できれば、営業経費の削減につながるはずだと考え、一部署の、それも若干20歳になったばかりの資材担当に過ぎない私が、支社にこのインバーター安定器を発注するように依頼をしたのだ。ところが、インバーター安定器は通常の安定器の2倍から3倍近い値段がする。このような高いモノを発注するとは何事だ!と、当時丸ノ内にあった支社経理課に呼び出された。
 支社に行くと、不機嫌な顔をした経理課長と、私より1期あとに入社した大卒の女性担当者が半分泣きそうな顔をして待ち構えていた。私はカタログデータと、当時の電気料金を基に、通常の安定器とインバーター安定器を比較したランニングコストのデータを示した。それと同時に、カタログデータと実際にメーカーに問い合わせた情報を基に、安定器の寿命と交換にかかるコストもデータ化して示し説明をした。
 その説明に半分納得してくださった経理課長は、「なぜ、ここまでするのか」と私に問うてきたので、「コストを減らすことは、収支の改善につながるのではと考えた。私は一介の電気係に過ぎないが、いま私が会社にできることは電気使用量を削減することだ」と答えたのだった。いま思えば、よくもまあここまで堂々と言い切るものだと苦笑いしてしまう。
 経理課長は「そうか、よく考えてくれているんだな」とおっしゃってくれて、私が発注したインバーター安定器の購入を認めてくれた。
 後にインバーター安定器が発注した数が、電気区の資材倉庫に納入されてきたが、その後実際に照明器具の安定器交換作業にあたった先輩から、「あれは軽くて作業しやすい。コードも差し込むだけで楽だ。一石二鳥になるんじゃないか」と褒めてくださった。

 このエピソードからもわかるように、コスト意識、新しいことへの挑戦、そしてデータの活用をするという意味において、JRにとって難しいものだったと考えられる。当時はまだまだ国鉄であったことが覗われよう。

  また、設備積極的な投資をすることにも消極的であったといえる。というよりは、そうすることが難しかったというのが実際のところだ。
 東京-九州間の夜行列車は、もっとも経営資源が潤沢なJR東日本の受け持ちはなく、ほとんどがJR西日本JR九州の受け持ちであった。
 JR西日本京阪神という比較的高い収入源があったものの、この地域は昔から私鉄との競争が激しく、経営資源をこの地域に集中する必要があった。加えて、山陽新幹線も収入源ではあったが、東海道新幹線ほどは見込めず、航空機との競争にさらされていたし、山陽も山陰もどちらかといえば輸送密度の低い路線を多く抱えている実態から、閑散として客離れが進む夜行列車への投資は難しいものがあったと考えられる。
 JR九州は今日でこそ株式上場を果たしたが、民営化当初は経営基盤が脆弱で赤字が見込まれる「三島会社」と呼ばれるうちの一つだった。やはり多くの赤字路線を抱えており、大きな収入源といえば福岡と北九州近郊ぐらいであっただろう。あとは観光客が収入源として期待できる程度であったから、集客のために多くのアイディアとインパクトのある列車を企画しつつ、九州島内の都市間輸送に力を注ぐ必要があった。経営資源の少ないJR九州にとっても、利用者の少ない夜行列車への投資は難しく消極的にならざるを得ない。

 加えて、夜行列車独特の人的コストも無視できない。
 夜行高速バスは二人の乗務員が、交代を繰り返しながら目的地までハンドルを握ることになる。1便あたり、2名で済むことになる。
 ところが、鉄道の場合はそうはいかない。運転士は受け持ちの区間ごとに「リレー」していく。これは、民営化前からも同様で、運転士が所属する区所の乗務範囲が決められているからだ。例えば、度々例に挙げている「あさかぜ」では、東京からハンドルを握る運転士は熱海まで乗務する。そして、熱海から乗務した運転士は浜松で交代する。浜松から名古屋、名古屋から大阪といった具合に、何度も交代する。
 これは、鉄道独特のものといえる。運転士は駅の配線や信号機の位置、線路の線形や速度制限のある場所など、運転する路線については熟知していなければならない。加えて、線路保守などで臨時に速度制限などがあれば、そのことについても乗務前にチェックしている。そのため、道路のように二人の乗務員だけで運転し続けることが難しい。
 特に夜通し走り続ける夜行列車は、乗務する区間によっては深夜のみを担当する区所も存在する。JR東海の管内は、すべて深夜の乗務になってしまうため、運転士には深夜手当を支給しなければならず、人的コストも無視できないものになってしまう。自社が運行する列車ならやむを得ないが、東京対九州夜行列車のほとんどはJR西日本JR九州が受け持ちになっているので、JR東海からすれば「他社の列車」に過ぎない。
 このように、分割民営化時にJR東日本に収入源を集中させまいとし、既に利用者離れが始まっていたにもかかわらず、長距離夜行列車は大きな収入源になり得ると誤った認識を基にして、夜行列車の受け持ちをJR西日本JR九州に割り振ってしまったことが、離れていった利用者を呼び戻そうとする積極策を講じれなかったと分析できる。それ故に、設備投資に対しても消極的になり続け、製造から30年以上経過したランニングコストの高い車両に、さらに改造を加えていく手法に頼らざるを得なくなっていったといえる。
 今日のクルーズトレインの盛況ぶりを見れば、老朽化が進み陳腐化した客車を新調し、寝台車にこだわらず時代のニーズに合った車両構成をするとともに、さらに運転する列車と停車駅を絞り込んで鉄道本来の強みである「定時性と速達性」を生かしていれば、夜行列車の衰退は防ぐことができたと考えられるし、もしかするとある程度の収入源となった推測できる。

夜行列車の考察 ~“商品”としての価値~

二等寝台車は通勤電車の座席と同じ幅のベッド

 夜行高速バスが隆盛の今日、長距離を夜間に移動をするという需要はあることが、前回の「京浜吉備ドリーム号」のレポートでもわかったと思う。
 そこで、一つの疑問が生まれてくる。それは、なぜ夜行列車は衰退し続け、消滅していったかということだ。

 1970年代のいわゆる「ブルートレインブーム」の頃は、一般にも夜行列車、特に寝台特急といった優等列車は、市民にも手の届くところになっていた。それ以前にも、急行列車であれば手が届いていたという。
 実際に、特急列車は乗れないまでも、急行列車であれば乗ることができた、という体験談を聞くことが多い。
 1960年代は、特急列車よりも急行列車の方が多く走っていた時代だ。国鉄の運賃も、等級制から現在のモノクラス制に移行し、運賃と、特急よりも遥かに安価な急行料金を払えば、長距離の旅を楽しめる。そして、少し奮発すれば、寝台車で移動することも夢ではなかったという。
 この頃の寝台車といえば、開放式三段寝台だった。軽量客車として設計・製造された10系客車には、二等寝台車(後にB寝台)としてナハネ10形などが製造され、夜行急行列車に連結されていた。

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戦後、国鉄が新製した二等寝台車(後のB寝台車)であるオハネ12形客車。軽量車体構造と新設計の台車を装備し、新製直後は特急列車にも使用された。その後、20系客車の登場により急行列車などへ転用され、他の10系客車が老朽化により廃車される中、分割民営化直前まで活躍した。当初は冷房設備はなかったため、窓は開閉可能になっている。©Norichika Watanabe

 この10系客車のナハネ10形などは、寝台幅が僅か520mmしかない。これは、国鉄の通勤形電車でもっとも多く製造され、今なお関西地区を中心に活躍している103系電車の座席幅が500mmなので、ほぼこの座席に寝ると想像すれば、その狭さが想像できると思う。長さは1900mmと当時の日本人の体格から考えれば、ある程度の余裕をもたせているものの、天地方向は僅か600mm~650mmと三段寝台であるがゆえの宿命ともいえる窮屈さだ。これを枕木方向に10区画設置しているので、定員は66名となる。これは、いかに多くの乗客を「詰め込む」ことができるかという、国鉄の設計思想が反映されている。

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オハネ12形客車の寝台。写真は下段と中段が写っているが、この上にもう一段の寝台がある。寝台幅は520mmと非常に狭く、寝返りを打つこともままならないといわれている。寝台を仕切るカーテンの装備もなかったようで、まさに「雑魚寝」状態だった。別名「蚕棚」ともいわれていた。©Norichika Watanabe

  そして、空調設備といえば、製造当初は通風器と寝台区画ごとに扇風機が設置されているだけだっというから、夏季にこの寝台車に乗って旅行をした先人たちは、相当の苦労を強いられたと想像できる。冷房装置がない代わりに、窓は開閉できるようになっているが、それでも窓のない上段には熱がこもって、蒸し風呂のようになっていたのではないだろうか。
 後年、さすがに高い寝台料金を取っておきながら、空調設備が扇風機だけではよろしくないと考えたのか、それとも時代の趨勢なのか扇風機に代わってAU14形と呼ばれる冷房装置を設置し、サービス水準を向上させた。
 とはいっても、もともと冷房装置を設置しないことを前提に設計された車両に、冷房装置を設置するとなれば、かなりの苦労が伴う。寝台区画を潰して床置き式の冷房装置を設置するのがもっともよいが、その分定員が減ってしまうので、国鉄としては選択したくない方法だ。とすると、やはり屋根に設置していくのが順当だろう。
 だが、車両建築限界いっぱいに設計された屋根の上に、冷房装置をそのまま載せるわけにはいかない。ということで、このAU14形は冷房装置としては異例の薄さ、つまり小型のものになってしまった。それだけ小型の冷房装置では、冷房出力もそれなりのものだったであろう。ちなみに、国鉄でもっとも一般的だった分散式冷房装置であるAU13形は、出力5500kcal/hだったというから、ある程度は想像がつくであろう。

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【左】オハネ12形客車の寝台区画の全景。昼間は中段を収納してボックスシートと使用し、夜間はこの中段を引き出して設置していた。【右】後年設置された冷房装置。寝台を三段にするために、車両限界ぎりぎりに屋根の高さで設計したため、冷房装置を後付けするのに苦心したことが窺われる。AU14形は特に薄型になるように設計したため、冷房能力は標準的なAU13形を下回ったと推測できる。©Norichika Watanabe

  一方、特急列車用として設計された20系客車は、当初から冷房装置は設置されていた。だが、二等寝台車であるナハネ20形の寝台はといえば、急行用の10系客車と変わらないサイズのまま。天地方向に10mm程度広がった程度でしかなかった。ただし、こちらは寝台の設置・解体を担当する乗務員のスペースである給仕室が設けられたため、定員は54名と1区画分少なくなったが、やはり「できるだけ詰め込む」という国鉄の設計思想は踏襲されたままだった。「走るホテル」などといわれた20系客車も、かなり窮屈な思いをして旅をしなければならなかったようである。

広がった寝台幅で居住性は向上 三段から二段へ広がり寝台料金は値上げ

 そんな通勤電車の座席と変わらない「寝台」だったのが、大きく変貌するきっかけになったのが、昼夜兼行で運用できる581系電車の登場だっただろう。B寝台(かつての二等寝台)であるにもかかわらず、寝台幅は下段1060mmという広さだ。中段と上段でも700mmになり、通勤電車の座席と変わらない幅しかなかったのが、一気に二倍の広さになったのは国鉄にとって破格のサービス向上になった。もっとも、B寝台であるにもかかわらず1060mmになったのは、昼間は座席として昼行特急に使うためという、やむを得ない事情があったためだが、それでも大幅に改善したといえる。
 ただしこの電車の寝台車はもっとも収容力のある車両でも、寝台定員45名と20系客車のB寝台に比べて9名も減ってしまった。そうなると、それまでの客車と同じ寝台料金では採算に合わない。そこで国鉄はこの電車寝台用、特にもっとも広い下段の料金設定を新たに設けたのだ。ある意味、「値上げ」したともいえる。

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20系客車の後に新系列として製造された14系客車。写真はスハネフ14形で製造当初は三段B寝台であったが、後年二段B寝台に改造されている。©Norichika Watanabe

 この電車寝台の居住性は好評だったようで、それならばと新たに設計する客車の寝台車も寝台幅を広げ700mmとした14系客車を搭乗させた。この時点でも三段寝台だったが、寝台幅の拡幅とともに定員も減ってしまった。しかし、このときは特に料金設定を変えることはなかった。
 以前にも書いたが、この14系客車以降に製造される寝台車は、とにかく製造コストを下げることが重要な課題の一つとなったために、工数を削減するために寝台などの車内設備をユニット化するなどして、できるだけ簡素なものにした。そのことが、後年になって仇となってしまったといえる。
 その後に搭乗する24系25形客車のB寝台は、寝台幅は700mmとそのままであったが、二段寝台に改め居住性をさらに向上させた。しかし、寝台を二段にすることで、定員はそれまでのさらに減ってしまう。そのため、国鉄は電車寝台の時と同じように、寝台料金の改定を行い、客車二段寝台用の料金を新たに設定したのだった。

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14系客車からB寝台も寝台幅700mmと広がり、居住性が格段に向上した。これは、581系電車で構造上、B寝台も700mm~1000mmの幅になり、これが乗客に好評だったことから客車についても広げられたという。この寝台幅の拡幅でようやく寝返りを打てるほどなったが、実際には少しコツが必要だった。ただし昼間の座席としては、座面が広すぎる分だけ座りにくさも否めなかった。©Norichika Watanabe

  これまで概観してきたとおり、国鉄の夜行列車の主役ともいえる寝台車は、時代の流れとともにサービス水準は一定程度向上してきたといえる。寝台車単体としてでいえば、寝台料金は多少高くなったとはいえ、寝台幅700mmの広さと、天地方向に拡大した二段寝台は、それなりに居住性もよく商品としての価値はあったと考えられる。もっとも、それは時代とともに価値は変化していくことを考えると、それは1980年代末までのことともいえよう。
 一方では肝心な目的地までの所要時間は改善することなく推移していった。というより、時代が移るにつれて、所要時間が「伸びていった」といってもよいだろう。
 ここで具体的な例として、東京-博多間をむすぶ特急「あさかぜ」と、西日本鉄道が運行する夜行高速バス「はかた号」を比較してみることにする。どちらも、東京と博多を結んでいるという点では同じであるといっていい(正確には、「はかた号」は新宿発であるが、東京都区内、山手線内の駅であるので同一と考える)。
 まず、特急「あさかぜ」であるが、1991年3月のダイヤでは、東京駅を19時03分に発車し、博多駅には翌日10時57分に到着する。所要時間は15時間54分だった。一方の「はかた号」はというと、資料が乏しいので発着時刻はわからないが所要時間は15時間10分であったという。
 次に移動にかかるコスト、即ち運賃や料金であるが、JRは運賃のほかに特急料金と寝台料金が必要になってくる。東京-博多間は運賃13,180円、それに加えて特急料金3,090円とB寝台料金6.180円が必要になるので、合計で22,450円となる。
 「はかた号」はバスの運賃のみになるが、同じ1991年当時の片道運賃は15,000円という設定であった。
 この両者の差額は7,450円と大きく、しかも所要時間はほぼ互角であったといえる。あとは、多少お金を使っても快適なベッドで寝て行くか、多少窮屈でも安価なバスで行くかという選択肢になろう。
 しかしながら、1990年代以降は状況が変化していく。バブル経済の崩壊に伴って、コストパフォーマンスが重視されるようになったからだ。人々は、少しでも安価でよいサービスを求めるようになっていく。
 その意味において、寝台特急は他の輸送機関に比べて、競争力を失いつつあったといえる。前出の特急「あさかぜ」は、B寝台でありながら個室寝台を連結するなど、サービス面で改善をし乗客の多様なニーズに応えようとしていた。しかし、運賃が安価な高速バスの前に、20,000円以上かかる料金では乗客離れもしていくであろう。車両も接客設備を改善したとはいえ、製造から20年以上経過した14系や24系といった客車の陳腐化は否めず、それを牽引する機関車もまた20年以上の「ベテラン選手」といった有様だった。一方のバスはといえば、ある程度の走行距離に達すると新車へ入れ換えをするので、ある程度の「新しさ」を保ち続けることができる。また、その周期は短いので、新しいサービスを盛り込みやすいという「強み」もあったといえる。
 さらに追い打ちをかけるように、新幹線の高速化、「のぞみ」の運転開始だ。それまで0系や100系と呼ばれる国鉄が開発した新幹線車両は、最高速度が210km/hで推移していた。
 民営化後に新型車両の開発によって徐々に速度を上げ、1991年当時で最速列車で5時間55分であったのが、「のぞみ」が博多までの運転を開始した1993年で5時間5分、1997年には4時間49分と所要時間は短縮していった(2017年現在は5時間5分程度)。運賃は13,820円に指定席特急料金の9,130円を加えて22,950円であり、寝台特急の22,450円と比べてその差はたったの500円しかない。つまり、ここでも身内のJRに利用客を奪われる要素があったというわけだ。
 加えて航空運賃の自由化が2000年に実施されると、高止まりだった航空運賃が、早期に購入することで、普通運賃に比べて半額以上も安く航空券が購入できるようになり、もはや目的地に到着するまでに時間もかかり、高価で、しかもサービス水準の陳腐化が著しい夜行列車は、利用者のニーズを満たすことができない商品となってしまったといえる。
 こうした状況に、JRは積極的に夜行列車の「商品価値」の改善は行わなかった。
 もはや1990年代以降、JR各社にとって夜行列車は花形商品どころか、むしろ「お荷物」的存在でしかなかったことが窺える。商品としての価値を失い、利用者離れも著しく、運転すればするほどコストもかかる夜行列車を21世紀に入るまで運転し続けた理由は定かではないが、恐らくは国鉄から引き継いだ良くも悪くも「伝統」がそうさせたのだろうと推測できる。