旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

夜行列車の考察 ~“商品”としての価値~

二等寝台車は通勤電車の座席と同じ幅のベッド

 夜行高速バスが隆盛の今日、長距離を夜間に移動をするという需要はあることが、前回の「京浜吉備ドリーム号」のレポートでもわかったと思う。
 そこで、一つの疑問が生まれてくる。それは、なぜ夜行列車は衰退し続け、消滅していったかということだ。

 1970年代のいわゆる「ブルートレインブーム」の頃は、一般にも夜行列車、特に寝台特急といった優等列車は、市民にも手の届くところになっていた。それ以前にも、急行列車であれば手が届いていたという。
 実際に、特急列車は乗れないまでも、急行列車であれば乗ることができた、という体験談を聞くことが多い。
 1960年代は、特急列車よりも急行列車の方が多く走っていた時代だ。国鉄の運賃も、等級制から現在のモノクラス制に移行し、運賃と、特急よりも遥かに安価な急行料金を払えば、長距離の旅を楽しめる。そして、少し奮発すれば、寝台車で移動することも夢ではなかったという。
 この頃の寝台車といえば、開放式三段寝台だった。軽量客車として設計・製造された10系客車には、二等寝台車(後にB寝台)としてナハネ10形などが製造され、夜行急行列車に連結されていた。

f:id:norichika583:20170713232151j:plain

戦後、国鉄が新製した二等寝台車(後のB寝台車)であるオハネ12形客車。軽量車体構造と新設計の台車を装備し、新製直後は特急列車にも使用された。その後、20系客車の登場により急行列車などへ転用され、他の10系客車が老朽化により廃車される中、分割民営化直前まで活躍した。当初は冷房設備はなかったため、窓は開閉可能になっている。©Norichika Watanabe

 この10系客車のナハネ10形などは、寝台幅が僅か520mmしかない。これは、国鉄の通勤形電車でもっとも多く製造され、今なお関西地区を中心に活躍している103系電車の座席幅が500mmなので、ほぼこの座席に寝ると想像すれば、その狭さが想像できると思う。長さは1900mmと当時の日本人の体格から考えれば、ある程度の余裕をもたせているものの、天地方向は僅か600mm~650mmと三段寝台であるがゆえの宿命ともいえる窮屈さだ。これを枕木方向に10区画設置しているので、定員は66名となる。これは、いかに多くの乗客を「詰め込む」ことができるかという、国鉄の設計思想が反映されている。

f:id:norichika583:20170713232156j:plain
オハネ12形客車の寝台。写真は下段と中段が写っているが、この上にもう一段の寝台がある。寝台幅は520mmと非常に狭く、寝返りを打つこともままならないといわれている。寝台を仕切るカーテンの装備もなかったようで、まさに「雑魚寝」状態だった。別名「蚕棚」ともいわれていた。©Norichika Watanabe

  そして、空調設備といえば、製造当初は通風器と寝台区画ごとに扇風機が設置されているだけだっというから、夏季にこの寝台車に乗って旅行をした先人たちは、相当の苦労を強いられたと想像できる。冷房装置がない代わりに、窓は開閉できるようになっているが、それでも窓のない上段には熱がこもって、蒸し風呂のようになっていたのではないだろうか。
 後年、さすがに高い寝台料金を取っておきながら、空調設備が扇風機だけではよろしくないと考えたのか、それとも時代の趨勢なのか扇風機に代わってAU14形と呼ばれる冷房装置を設置し、サービス水準を向上させた。
 とはいっても、もともと冷房装置を設置しないことを前提に設計された車両に、冷房装置を設置するとなれば、かなりの苦労が伴う。寝台区画を潰して床置き式の冷房装置を設置するのがもっともよいが、その分定員が減ってしまうので、国鉄としては選択したくない方法だ。とすると、やはり屋根に設置していくのが順当だろう。
 だが、車両建築限界いっぱいに設計された屋根の上に、冷房装置をそのまま載せるわけにはいかない。ということで、このAU14形は冷房装置としては異例の薄さ、つまり小型のものになってしまった。それだけ小型の冷房装置では、冷房出力もそれなりのものだったであろう。ちなみに、国鉄でもっとも一般的だった分散式冷房装置であるAU13形は、出力5500kcal/hだったというから、ある程度は想像がつくであろう。

f:id:norichika583:20170713232203j:plain
【左】オハネ12形客車の寝台区画の全景。昼間は中段を収納してボックスシートと使用し、夜間はこの中段を引き出して設置していた。【右】後年設置された冷房装置。寝台を三段にするために、車両限界ぎりぎりに屋根の高さで設計したため、冷房装置を後付けするのに苦心したことが窺われる。AU14形は特に薄型になるように設計したため、冷房能力は標準的なAU13形を下回ったと推測できる。©Norichika Watanabe

  一方、特急列車用として設計された20系客車は、当初から冷房装置は設置されていた。だが、二等寝台車であるナハネ20形の寝台はといえば、急行用の10系客車と変わらないサイズのまま。天地方向に10mm程度広がった程度でしかなかった。ただし、こちらは寝台の設置・解体を担当する乗務員のスペースである給仕室が設けられたため、定員は54名と1区画分少なくなったが、やはり「できるだけ詰め込む」という国鉄の設計思想は踏襲されたままだった。「走るホテル」などといわれた20系客車も、かなり窮屈な思いをして旅をしなければならなかったようである。

広がった寝台幅で居住性は向上 三段から二段へ広がり寝台料金は値上げ

 そんな通勤電車の座席と変わらない「寝台」だったのが、大きく変貌するきっかけになったのが、昼夜兼行で運用できる581系電車の登場だっただろう。B寝台(かつての二等寝台)であるにもかかわらず、寝台幅は下段1060mmという広さだ。中段と上段でも700mmになり、通勤電車の座席と変わらない幅しかなかったのが、一気に二倍の広さになったのは国鉄にとって破格のサービス向上になった。もっとも、B寝台であるにもかかわらず1060mmになったのは、昼間は座席として昼行特急に使うためという、やむを得ない事情があったためだが、それでも大幅に改善したといえる。
 ただしこの電車の寝台車はもっとも収容力のある車両でも、寝台定員45名と20系客車のB寝台に比べて9名も減ってしまった。そうなると、それまでの客車と同じ寝台料金では採算に合わない。そこで国鉄はこの電車寝台用、特にもっとも広い下段の料金設定を新たに設けたのだ。ある意味、「値上げ」したともいえる。

f:id:norichika583:20170713233750j:plain
20系客車の後に新系列として製造された14系客車。写真はスハネフ14形で製造当初は三段B寝台であったが、後年二段B寝台に改造されている。©Norichika Watanabe

 この電車寝台の居住性は好評だったようで、それならばと新たに設計する客車の寝台車も寝台幅を広げ700mmとした14系客車を搭乗させた。この時点でも三段寝台だったが、寝台幅の拡幅とともに定員も減ってしまった。しかし、このときは特に料金設定を変えることはなかった。
 以前にも書いたが、この14系客車以降に製造される寝台車は、とにかく製造コストを下げることが重要な課題の一つとなったために、工数を削減するために寝台などの車内設備をユニット化するなどして、できるだけ簡素なものにした。そのことが、後年になって仇となってしまったといえる。
 その後に搭乗する24系25形客車のB寝台は、寝台幅は700mmとそのままであったが、二段寝台に改め居住性をさらに向上させた。しかし、寝台を二段にすることで、定員はそれまでのさらに減ってしまう。そのため、国鉄は電車寝台の時と同じように、寝台料金の改定を行い、客車二段寝台用の料金を新たに設定したのだった。

f:id:norichika583:20170713233756j:plain
14系客車からB寝台も寝台幅700mmと広がり、居住性が格段に向上した。これは、581系電車で構造上、B寝台も700mm~1000mmの幅になり、これが乗客に好評だったことから客車についても広げられたという。この寝台幅の拡幅でようやく寝返りを打てるほどなったが、実際には少しコツが必要だった。ただし昼間の座席としては、座面が広すぎる分だけ座りにくさも否めなかった。©Norichika Watanabe

  これまで概観してきたとおり、国鉄の夜行列車の主役ともいえる寝台車は、時代の流れとともにサービス水準は一定程度向上してきたといえる。寝台車単体としてでいえば、寝台料金は多少高くなったとはいえ、寝台幅700mmの広さと、天地方向に拡大した二段寝台は、それなりに居住性もよく商品としての価値はあったと考えられる。もっとも、それは時代とともに価値は変化していくことを考えると、それは1980年代末までのことともいえよう。
 一方では肝心な目的地までの所要時間は改善することなく推移していった。というより、時代が移るにつれて、所要時間が「伸びていった」といってもよいだろう。
 ここで具体的な例として、東京-博多間をむすぶ特急「あさかぜ」と、西日本鉄道が運行する夜行高速バス「はかた号」を比較してみることにする。どちらも、東京と博多を結んでいるという点では同じであるといっていい(正確には、「はかた号」は新宿発であるが、東京都区内、山手線内の駅であるので同一と考える)。
 まず、特急「あさかぜ」であるが、1991年3月のダイヤでは、東京駅を19時03分に発車し、博多駅には翌日10時57分に到着する。所要時間は15時間54分だった。一方の「はかた号」はというと、資料が乏しいので発着時刻はわからないが所要時間は15時間10分であったという。
 次に移動にかかるコスト、即ち運賃や料金であるが、JRは運賃のほかに特急料金と寝台料金が必要になってくる。東京-博多間は運賃13,180円、それに加えて特急料金3,090円とB寝台料金6.180円が必要になるので、合計で22,450円となる。
 「はかた号」はバスの運賃のみになるが、同じ1991年当時の片道運賃は15,000円という設定であった。
 この両者の差額は7,450円と大きく、しかも所要時間はほぼ互角であったといえる。あとは、多少お金を使っても快適なベッドで寝て行くか、多少窮屈でも安価なバスで行くかという選択肢になろう。
 しかしながら、1990年代以降は状況が変化していく。バブル経済の崩壊に伴って、コストパフォーマンスが重視されるようになったからだ。人々は、少しでも安価でよいサービスを求めるようになっていく。
 その意味において、寝台特急は他の輸送機関に比べて、競争力を失いつつあったといえる。前出の特急「あさかぜ」は、B寝台でありながら個室寝台を連結するなど、サービス面で改善をし乗客の多様なニーズに応えようとしていた。しかし、運賃が安価な高速バスの前に、20,000円以上かかる料金では乗客離れもしていくであろう。車両も接客設備を改善したとはいえ、製造から20年以上経過した14系や24系といった客車の陳腐化は否めず、それを牽引する機関車もまた20年以上の「ベテラン選手」といった有様だった。一方のバスはといえば、ある程度の走行距離に達すると新車へ入れ換えをするので、ある程度の「新しさ」を保ち続けることができる。また、その周期は短いので、新しいサービスを盛り込みやすいという「強み」もあったといえる。
 さらに追い打ちをかけるように、新幹線の高速化、「のぞみ」の運転開始だ。それまで0系や100系と呼ばれる国鉄が開発した新幹線車両は、最高速度が210km/hで推移していた。
 民営化後に新型車両の開発によって徐々に速度を上げ、1991年当時で最速列車で5時間55分であったのが、「のぞみ」が博多までの運転を開始した1993年で5時間5分、1997年には4時間49分と所要時間は短縮していった(2017年現在は5時間5分程度)。運賃は13,820円に指定席特急料金の9,130円を加えて22,950円であり、寝台特急の22,450円と比べてその差はたったの500円しかない。つまり、ここでも身内のJRに利用客を奪われる要素があったというわけだ。
 加えて航空運賃の自由化が2000年に実施されると、高止まりだった航空運賃が、早期に購入することで、普通運賃に比べて半額以上も安く航空券が購入できるようになり、もはや目的地に到着するまでに時間もかかり、高価で、しかもサービス水準の陳腐化が著しい夜行列車は、利用者のニーズを満たすことができない商品となってしまったといえる。
 こうした状況に、JRは積極的に夜行列車の「商品価値」の改善は行わなかった。
 もはや1990年代以降、JR各社にとって夜行列車は花形商品どころか、むしろ「お荷物」的存在でしかなかったことが窺える。商品としての価値を失い、利用者離れも著しく、運転すればするほどコストもかかる夜行列車を21世紀に入るまで運転し続けた理由は定かではないが、恐らくは国鉄から引き継いだ良くも悪くも「伝統」がそうさせたのだろうと推測できる。