旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

夜行列車の考察 ~商品価値を重視した対北海道列車~ その1

青函トンネル開通が夜行列車の大きな転機に

 「商品としての価値」を失った対九州方面の夜行列車。
 1970年代に設計・製造された老朽化が進行し、サービス水準も陳腐化していく車両で、高い運賃とあまりにも長い所要時間で、他の交通機関から利用者を奪われつづけた結果、その終焉を迎えていくことになった。

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上野駅で発車を待つ特急「北斗星」。1970年代に製造された24系25形客車を、時代と利用者のニーズに合わせた内装と設備、サービスにし、対北海道夜行客車列車の人気を集めることに成功した。©Norichika Watanabe

  夜間に長距離を移動する旅行客がいるという需要があるにもかかわらず、それを取り戻そうとするどころか、これといった有効策を打つことはかった。分割民営化の時に、九州方面の夜行列車を受け持つことになった、JR西日本JR九州にその余力がなかったことも、その要因の一つだと考えられる。
 ところが、行き先を変えてみると、夜行列車はまだまだ活躍の場があった。
 それが、対北海道・東北方面の夜行列車であった。
 北へ向かう夜行列車は、衰退するどころか逆に「商品としての価値」を創造していき、車両の老朽化と北海道新幹線の開業によって終止符を打たされてしまったが、廃止の間際まで一際高い人気を保っていた。
 もともと東北方面への夜行列車は多数運転されていた。
 上野から青森へ向かう夜行列車は、東北本線だけではなく、常磐線経由、奥羽本線経由など、同じ行き先でも多種多様であった。加えて、多くの座席急行列車も運転されていたことを見ると、かなりの需要があったといえる。
 京阪神からも同様で、いわゆる日本海縦貫線をそうはして青森に向かう特急「日本海」や新潟行きの特急「つるぎ」、急行「きたぐに」などは、一時は盛況を呈していたという。
 もっとも、対九州の夜行列車と違って、東北方面は新幹線の延伸が遅れていたことも、夜行列車の需要が極端に落ち込まなかった理由の一つといえる。1982年に開通した東北新幹線は、大宮-盛岡間の暫定開業を経て、1985年に上野まで乗り入れることになる。東京への乗り入れは民営化後まで待たねばならず、また、盛岡以北の延伸も2002年まで待たねばならなかった。新青森への延伸開業は2010年となり、暫定開業から28年の歳月を要してしまった。
 この全線開業までかなりの時間を要した原因については諸説あるものの、政治的な思惑や建設費用の財源問題、さらに新幹線の整備に伴い並行在来線の運営を、JRから切り離すことに対して沿線自治体が反対するなど、多くの課題が山積していたようだ。
 とはいえ、この28年の年月が経つ間に、対東北夜行列車は走り続けていた。
 そんな北へ向かう夜行列車に大きな転機が訪れたのは、1988年の青函トンネルの開通であろう。青函トンネルの構想そのものは戦前から出ていたものの、第二次世界大戦の勃発によって具体化することはなかった。
 しかし、1954年に起きた青函連絡船洞爺丸事故*1により、計画は具体化していくことになる。そして、着工から27年の歳月と総工費約9000億円をかけ、難工事の末に開通した。

利用者のニーズを絞り込んで商品としての価値付に成功した「北斗星

 この青函トンネルの開通で、北海道から九州まで鉄道がつながったことになった。
 JR東日本JR北海道は、上野から札幌まで直通する特急「北斗星」の運転を開始する。この「北斗星」は車両こそ国鉄から引き継いだ24系25形客車を宛てたが、その車内はそれまでの列車と一線を画するものであった。A寝台はともかくとして、B寝台も個室中心の設備へ改めている。そして対九州の夜行列車では連結こそしているものの、営業休止となってしまっていた食堂車の営業をさせている。
 この「北斗星」は、豪華な車内と食堂車のメニューなどサービス面を大きく変えたことで、夜行列車の「商品としての価値」を大きく向上させることに成功し、寝台券がなかなかとれないという現象を起こし、「プラチナチケット」とまで呼ばれるほどの人気を博した。

 私自身も、何度か北海道を訪れる時に、この「北斗星」を利用したことがある。
 対九州の夜行列車も利用したことがあるが、とにかく同じ車両を使用しているとは思えないほど、車内は豪華につくられていた。従来からある開放式B寝台は少なく、反対にB寝台でありながら、一人用個室や二人用個室が中心であった。もちろん、A寝台も個室だが、従来の細長く狭い区画の個室ではなく、できるだけ広い空間を確保した部屋になっていた。

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特急「北斗星」の食堂車「グランシャリオ」の車内。従来の食堂車の常識を覆す内装と調度品に、落ち着いた雰囲気を作り出して夜行列車の旅の楽しさに華を添える存在だった。©Norichika Watanabe

 そして、何よりも食堂車であるが、乗客が食事をする区画は絨毯敷きとなり、ワンクラス上の旅を楽しめる雰囲気をつくるため、調度品も従来の食堂車にはない豪華なつくりのものを採用。さらにテーブルにはシャンデリアが備えらるなど、それまでの列車食堂の「とにかく食べられればよい」という概念を覆すものだった。
 食堂車のメニューもまた、大きく改善されていた。ディナータイムはフランス料理か懐石料理から選べるが、事前に予約をしなければならない。もちろん、値段もそれなりに高くはつくが、その値段にふさわしい内容であった。ディナータイム終了後は、予約なしでも利用できるパブタイムとなり、アラカルトやアルコール飲料などを提供してくれるので、日常とかけ離れた「優雅な時間」を楽しめた。
 もう一つ、それまでの夜行列車にないものといえば、シャワー設備が備えられたことだろう。実際、私も一度だけ利用したことがあるが、揺れる列車の中で熱いシャワーを浴びてさっぱりとできるとは思いもよらなかった。かつて「走るホテル」と呼ばれた20系客車にもなかったもので、これこそまさしく「走るホテル」の名にふさわしい充実した設備であったといえる。

 このように、思い切った改善が功を奏し、人気のが途絶えることのない列車であったといえよう。
 では、なぜここまで夜行列車のサービスを大きく変えたのか。
 まず、時代のニーズに合わせたサービスを提供しなければ、走らせたところで利用者が離れていき、最後は採算もとれないお荷物になる危険があったからだ。実際、東京発対九州の夜行列車は利用者離れが著しく、採算がとれない状態に陥っていた。そうなると、同じ轍を踏むわけにもいかない。それ故、できるだけ多くの利用者を獲得するためには、利用者のニーズに合わせた設備でなければならない。即ち、「北斗星」は夜行列車の「商品としての価値」を重視した列車であったといえよう。
 もう一つは、JR東日本がかかわっていたということだろう。JR東日本は首都圏というドル箱を抱えており、資金も他の旅客会社に比べて資金も潤沢である。その潤沢な資金を使って、客車の大改造を実現できたといえる。
 一方、共同運行するJR北海道はそこまでの資金力はないが、列車を受け持つからには同じサービスレベルに揃えなければならないと、かなりの無理をしたのではないかと想像できる。とはいえ、東京から自社へ直通する列車の運行は悲願であったし、列車を利用して北海道を訪れてきた利用者は、潜在的に自社の運賃収入にもつながると読み、大規模な設備投資を実現させたといえる。
 さらに付け加えれば、JRにとって航空機の存在が脅威であったと推察できる。従来は東京から札幌まで移動する場合、上野から列車を乗り継ぎ、青森駅青函連絡船に乗船。函館駅で再び列車に乗り継がなければならなかった。ほぼ1日がかりでの移動である。対して航空機は羽田空港から新千歳空港まで約1時間強で移動が可能で、運賃面においても大差はなかった。
 つまり、札幌へ行くとなれば、第一選択として航空機を利用することが一般的だった。そんな「劣勢」な市場へ新たな夜行列車を走らせるとなれば、国鉄以来綿々と受け継がれてきた伝統に則った列車では、到底対抗できるものではない。それ故に、新たに運行する夜行列車には、ただ単に移動するだけの手段ではなく、「列車の旅そのものを楽める商品」にする必要性があったといえる。実際、「北斗星」の運転開始時には、上野から札幌まで所要時間16時間3分もかかるが、航空機にはない優位性を保つために、列車内でゆったりとくつろげる空間作りは不可欠だったといえる。

*1:死者行方不明者合わせて1155人。本船の他にほぼ同時に遭難した船舶を含めると犠牲者は1430人にのぼる。これは、日本の海難事故史上最悪のものであったと同時に、1912年のタイタニック号、1815年のサルタナ号に次いで当時の世界海難史上3番目の海難事故であった